「ライスショック」を観て
――米つくりの現場・山村の栄村から―― 松尾 真


栄村で暮らすようになった4月半ば以降、テレビのない暮らしをしている。私は結構「テレビ人間」だったのだが、テレビのない生活はなかなか快適だ。ただ、時々困ることがある。たとえば、10月21日、22日の二夜、NHKで放映された「ライスショック」のような番組があるときだ。
先週の前半は、村でいろんな人と会うたびに、この番組が話題になった。観ていない私としては非常に困ってしまった。幸い、知人がDVDに録画したものを貸してくれたので、今日の早朝5時半頃から約1時間半、ひと通り観ることができた。


●「消費者のコメばなれ」という説明をどう考えるか

色々と感想があるが、まず1つだけあげると、

食事をするってことは"消費"なのか?


ということである。
米価の下落の原因として、真っ先に「消費量の減少」が挙げられ、「消費者のコメばなれ」ということが言われる。
たしかに、おコメをスーパーなどで購入するということからすると、おコメは"消費"の対象ということになるであろう。しかし、それはあくまでも米の市場での流通を経済学的に捉えた場合のことであって、人が実際にご飯を食べるときは、おコメを"消費"するのではなく、"食事"という営みをするのだと、私は思う。
なにか些細なことに拘っていると思われるかもしれないが、けっしてそうではないだろう。人は、人間の日々の営みの中でも最も基本中の基本、土台にあるものとして、"食べる"という行為を行うのである。それは単に「腹が減ったから食べる」というだけのことではない。食べものを目、鼻、舌など、五感の多くを動員して味わい、楽しむ。それだけではない。食材や、その食材を育てたり、採ったりした人の姿を思い描くこともあるだろうし、なによりも料理してくれた人への思いを込めて口に入れるはずだ。さらに、食事をしながら、家族や友人などと会話することも、食事の重要な要素だろう。
このように考えると、食事は"消費"という範疇(概念)で括れるものではなく、非常に人間的な営み、文化的営為なのだということがあきらかになってくるだろう。
そのように考えると、番組に「専門家」として登場し、コメ問題を市場の動きに委ねよと主張する本間正義なる人物が、市場原理主義的エセ「経済学」で人間の営みのすべてを判断・決定しようという、とてつもなく愚劣な人間であることが明確になるだろう。
人がどういうものを食べるかは優れて文化の問題である。私は、「日本の伝統文化はコメ文化」などということを言おうとは思わない。日本列島に住まう人びとのほとんどすべてがおコメを食べるようになったのは、じつは歴史的には比較的新しいことだからだ。だが、「消費者のコメ離れ」と言われていることが、人びとの食文化の変化を表していることは確かだと思う。
ただ、その場合、おさえておくべき大事なことが1つあるように思う。その「食文化の変化」が必ずしも自覚的なものなのではなく、食品産業や流通業界に無自覚的に誘導されているものである側面が非常に濃厚だということである。そのいい例が、少し前の時期に騒ぎになった、「あるある大事典」という番組による「納豆」騒動である。
本来、食というものは、自らの手で確保し、そして自ら食するなかで、食べていいものかどうか、何がおいしいか、体にいいか、などを確かめていくものであるはずだ。しかし、いま、そういうことが疎かになっている。たしかに、社会的分業が進み、多くの人間が都市に居住する今日、食の源となるものを「自らの手で確保」することは困難であろうが、自らの食生活を自ら組み立てていく自覚的営みは絶対に必要である。
そのとき、おコメというものの素晴らしさ、おいしさを改めて見直すことも始まるのではないだろうか。そして、「外国産のコメが自由に入ってくれば、コメはもっと安くなる。コメの問題は市場による調整に委ねればよい。日本のコメ農家が潰れてもしかたない」などという言説に「消費者」が惑わされることもなくなるのではないだろうか。


●「顔の見える関係」の大事さ
いま私が書いているものは"論文"などではなく、録画を観ての感想の走り書きにすぎないから、すべての論点を網羅しなければならないというような意識はない。とりあえず、もう1つだけ、感想を記しておきたい。
秋田県大潟村のコメ販売会社のことである。コメ生産農家の一人がコメの販売会社までつくり、通信販売で全国各地にコメを販売しているという話だ。
私は、以前にこの会社の話を本で読んだことがあった。そのとき、かなり圧倒された記憶がある。私の記憶が正しければ、そもそもは国の食管制度に公然と反旗を翻してのものだったのではないだろうか。そして、農学系の大学院修了者を雇い入れて、減農薬等の管理までしているという話だった。
その会社、一時期は全国に30万件の個人購入者をもっていたという。しかし、今回の番組によれば、最近、それが5万件にまで減少した。そこで、大手スーパーにも販売先を確保しようと、営業担当者が東京の大手スーパーのオフィスを訪ねる場面が映し出された。商談は不成立だった。そのとき、スーパー側の担当者が吐いたセリフがビデオに拾われていた。
「(おたくだけではなく)どこも工夫しておいしいものを作っていますよ」と。
このセリフ、私も聞かされたことがあるものだ。昨年、青倉米の販売活動を始めたときに、同じようなことを、どこかで言われた記憶がある。
たしかに、そうなのだ。全国各地、おコメをつくる農家はたくさんある。そのなかに、なんの思い入れもなくコメをつくっているという人はむしろ少ないであろう。みんな、なにかしらの工夫をし、「おいしいおコメ」をつくっている。だから、「うちのおコメはおいしいですよ」、「うちはこんな工夫をしています」というだけでは通用しないと、私は思う。
大事なのは、つくる人と食べる人の関係性にあると思う。
私はいま、青倉米の販売、販路拡大に懸命に取り組んでいる。そのなかで、やはり、「雪どけ水だけでつくっています」とか、「できるだけ農薬を減らしてつくっています」、そして「青倉米はおいしさ抜群です」といったことを言っている。そう言いながら、しかし、それだけではだめだと思うのである。
先日、21日、村の収穫祭で青倉米の販売をした。来る人の大半は村内の人たちで、ほとんど売れないことを覚悟したうえでの出店だったが、なんと、会場そばを通りかかった村外の人を中心に、じつに2俵分のおコメが売れた。大感激である。ポイントは3つあったと思う。第1に、青倉米をつくった当人が自ら販売に当たったということ。第2に、その場で釜で炊いたご飯をお握りにして食べていただいたこと。そして第3に、青倉米を育てた青倉集落・西山田の棚田の風景を大きく写しだしたパネルを展示し、「見てください、この棚田でつくったおコメです」と伝えたことだ。これが決定的だったと思っている。
ここに、ひとまず「食べる人とつくる人の関係」が直接に形成されたのである。
それとは対照的なのが、大潟村の販売会社である。通信販売のためのコールセンターが画面に映し出された。コンピューターを前にして、イヤホーンが片耳に入り、口元に小型マイクがついたヘッドホンのようなものを付けた何人もの女性が並び、「消費者」とやりとりをしている。TVのコマーシャルに出てくる保険のアリコなどのコールセンターとまったく同じ光景である。これでは、もはや「産直」ではないだろう。「産直」とは、単に産地から直送されるということではなく、「つくる人と食べる人とが顔の見える関係」を言うのだと思うのである。

番組は、画面に出てきて話をしたキャスターが主観的にはどのように考えているかはわからないが、番組の内容的流れとして、「もうグローバル化に流れに逆らうことはできない。日本のコメ農家が潰れるのもやむをえない」ということを言おうとしているように感じた。
だが、私は、「日本のコメ農家が潰れない」道は残されていると思っている。日本列島に住まう人びと、一人ひとりが自分の"故郷"をもつことである。それは必ずしも自分が生まれ育ったところということではない。いま、「私が食べるおコメの故郷はここ。○○さんがつくるおコメが私のおコメ」と思うところが"故郷"である。そして、そこが"故郷"である以上、1年に1度くらいは訪れてみる(帰省する)、そして、田植えでも草とりでもいい、なにかコメつくりに少しでも携わってみることである。
そのとき、日本の農の営みの再生のときが始まると思うのである。
(了)



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