栄村から金融危機を考える
――「成長」と「景気」への呪縛からの自己解放を

  松尾 真

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毎日のように「株価大暴落」などのニュースが飛び交う。そんな日々がもう1ヶ月ほど続いている。
TVのニュースなども、はじめの頃は、株価の上がり・下がりに「一喜一憂」する感じだったが、最近では株価の反騰があっても、「また暴落するに違いない。先行きはまったく不透明」という雰囲気である。
結論的にいえば、私は、現在の金融危機は2年、3年や、あるいは5年、10年の単位で「回復」が云々できるような代物ではなく、50年、100年の単位で考える必要があるような性格のものではないかとみている。もちろん、私は金融の専門家ではなく、経済(学)の専門家でもない。これは、一市民としての、歴史的直感のようなものでしかない。しかし、そういうことを考えてみる必要がある歴史的な事態に、いま、私たちは直面しているのではないかと思うのである。


(1) 今回の金融危機は、50年・100年単位の社会経済変動の始まりなのではないか

今回の金融危機が1929年世界大恐慌と比較されることがある。ここで、その対比あるいは類推が妥当かどうかを議論するつもりはない。大事なことは、1929年大恐慌をめぐる事態はその後、どのように推移したのかを思い起こすことだと思うのである。

1. 1929年世界大恐慌から脱出するのにじつは約50年かかった
やはりアメリカ発であった29年世界大恐慌が世界的に「克服」されるには、結局、50年近くを要したこと、そして、その約50年を経て、社会・経済は根本的に変わったということである。
まず、「50年」と私が言う意味と根拠である。
たとえば、日本。29年世界大恐慌は日本にも波及したが、その「突破」をかけて日本は15年戦争に突っ込んでいった(1931年〜1945年)。そして、敗戦と戦後の大混乱。「経済白書」が「戦後は終わった(※1)」 と宣言し、高度経済成長期に入ったのは1950年代後半のことである。1956(年)−1929(年)=27年である。さらに高度経済成長が日本の社会全体に波及し、「豊かな日本」が実現されるまでを考えると、ほぼ50年ということになる。

(※1)「経済白書」が「戦後が終わった」と言った意味は、「戦後復興需要で経済成長ができる時代は終わった」ということであり、高度経済成長政策への転換を求めたのであった。

それでは、アメリカは日本とは異なり、29年世界大恐慌からいち早く脱出できたのかと言えば、そうではない。「ルーズベルトのニューディール政策によって恐慌を克服した」などというのは、事実とは異なる。ニューディールはせいぜいのところ、大恐慌という激震をひとまず沈静化した程度のものに過ぎず、アメリカ経済が本格的に回復するのは1939年に第2次世界大戦が勃発し、軍需経済化することによってである。大恐慌ののりきりには戦争しかなかったのである。そして、アメリカ経済が"平時"でもいわば持続的な成長が可能になるのは、欧・日が高度経済成長期に入り、戦後世界経済体制と言われるものが回り始めることによってであった。つまり、やはり「50年」ということである。

今回も、「危機ののりきりには戦争しかない」ということを言おうというのではないが、今回の金融危機を29年世界大恐慌になぞらえるならば、少なくとも、上にみたように「50年」という単位で物事を考える必要があると考えるのである。

2. 「50年」で暮らし、社会・経済は大きく変わった
そして、この(29年世界大恐慌後の)「50年」で世界がどう変わったのかも、見ておくことが必要である。
結論から先にいえば、人びとの暮らしの隅ずみに至るまで貨幣経済(市場経済)が浸透し、「モノとサービスをなんでもカネで買う」という暮らしが一般化(普遍化)したのである。いいかえれば、大衆消費社会化である。
日本の場合でいうと、たしかに明治維新から近代化によって資本主義経済化が進んだとはいえ、1929年頃、いや戦後も高度成長期までは、日本の人口の過半は農村(田舎)で暮らし、暮らしに必要なもののかなりの部分を自給ないしそれに近い形で確保していた。都市人口が農村人口を上回るようになるのは1960年頃のことである。都市でも、私(1950年、昭和25年生まれ)などの世代は、子どもの服を母親が自分で縫っていたものである。また、都市周辺部であれば、サラリーマン世帯でも、家の周りに畑があって野菜のかなりを自給している人も結構いた。
いわゆる「高度経済成長」で社会・経済のあり方が根本的に変わったのであり、その淵源は29年世界大恐慌からの「根本的」脱出をめぐる経済の変化にあったのである。
その点をもう少し、考えておこう。

<社会全体の市場経済化はどのようにして実現されたか>
資本主義経済とは市場経済(貨幣経済)の全面化ということであるが、それはどのようにして可能になるのか。
一言でいえば、人びとが自給しえているモノを自給できないようにし、カネを出して購入しなければならない社会と経済の仕組みをつくることによって、である。そのプロセスは衣と食から始まる。イギリスの産業革命が綿工業から始まったという歴史的事実の意味はそういうことである。
ところで、資本主義経済というものは、じつは、企業が利潤を得て、当初投下した資本を拡大再生産することによって成り立つ。たえず経済が拡大することが必須なのである。ところが、人びとがもともとは自給的に手に入れていたもの(衣や食)をカネで買う状態が常態化するようになると、その分野では市場は飽和状態になってしまう。いいかえれば、生活必需品としての衣や食をめぐる商品だけでは儲からなくなり、別の分野の商品が必要になるということである。それが、高度成長期を通してほとんどの家庭に普及した家電製品などである。たとえばテレビ。衣や食と比べると「これがないと絶対に暮らしが成り立たない」というものではないが、人びとの暮らしは時代とともに変わるので、いまでは「生活必需品」である。私たちは、高度経済成長期を経て、次から次へと、新しいモノやサービスを欲しがるようになり、どんどん消費を拡大してきた。それによって、経済(市場経済)は回ってきたのである。
だが、モノやサービスという商品への需要は無限のものであろうか。けっして、そうではない。私たちの暮らしは、いまや、モノとサービスが溢れかえり、「これ以上に欲しい」というようなモノやサービスはもうそんなにはない。この10数年を振り返ってみて、爆発的に普及した新製品というものは携帯電話くらいしか存在しないという一事をみても、そのことはあきらかである。あるいは、栄村のような山村には不自由しかもたらさないと言っても過言ではないTVの地上デジタル化などという馬鹿げたことが、なぜ、強行されるのか。もはや売る新製品がなくなった家電業界が、無理矢理に需要を作り出し、全家庭に高額の新しいテレビを買わせるためと考えれば、容易に理解できるが、これなどは市場が飽和状態になっていることの最たる現われだといえよう。

このような、すべてのモノ・サービスをカネで購入するという暮らし、社会への変化。これが29年大恐慌からの脱出のために創り出された社会・経済の仕組み(システム)だったのである。


(2) 「景気対策が最優先課題」なのか?

世界的には「金融危機対策の国際協調」が叫ばれ、国内的には「景気対策が最優先課題」だとされている。
本当にそうなのだろうか?
いささか極論だと思われるだろうが、「この際、壊れるものは壊れるにまかせた方がよい。景気対策が最重要という考え方は間違っている」と、私は言いたい。以下、その理由を述べてみようと思う。

1. 金融バブルで支えられてきた実体経済
「金融危機対策」を必要だとする議論は、その理由として、「いまの金融危機を放置すると、実体経済にまで危機が広がる」ということを挙げる。金融業界がマネー・ゲームの挙げ句に破綻したという厳然たる事実があるので、さすがにバブル崩壊期に日本でよく言われた「金融は経済の血液循環を円滑にするもの。金融業界を救済しないと、経済がうまくいかなくなる」という「論理」は使いづらいようである。そこで、最近よく言われるのが、「金融危機を放置すると、実体経済に悪影響が及び、実体経済までピンチになり、国民生活に影響が出る。金融そのものへの対策とともに、実体経済の危機化を食い止める景気対策が重要だ」という「理屈」である。
たしかに、一方で物価が上がっている中で、景気が悪くなり、失業が増えたり、給与所得が減ったりというのでは、国民の暮らしは大変である。だから、世論調査などの結果を見ても、「景気対策を望む」という声が多いようである。そこで、企業の設備投資を下支えする財政・金融政策が主張されると同時に、「個人消費が冷え込まないようにする政策」が主張されている。
しかし、ここが考えどころだと思うのである。
サブプライム問題に示されるようなマネー・ゲームあるいはマネー投機は悪いが、個人の消費を含めて実体経済自体は正常に動いてきたものだと、はたして言えるのだろうか、ということを問いたいのである。
たとえば、日本経済の場合を考えてみよう。
この間の日本経済の長期にわたる好景気(ただし、個々の国民はそれほど景気がいいとは感じてこなかったのだが)は、じつは外需、つまりアメリカなどへの輸出の好調に大きく支えられてきたものである。その一例が自動車産業である。しかし、対米輸出の好調は何によって支えられてきたのか。それは、じつは、サブプライム・ローンに代表される金融工学的な錬金術によって支えられてきたのである。その仕組みはこうである。

<サブプライム問題の構造>
住宅金融会社などが住宅ローンに融資する。それは当然、長期貸しである。その長期貸付のための資金を住宅金融会社は短期資金の借入で賄う。しかし、「短期の資金を借りて、それを長期に貸し付ける」などということは、本来、不可能である。そこで、住宅金融会社などは、住宅ローンの債権を証券化して売りに出す。そうして現金を手に入れ、それで借入した短期資金を返済する。この繰り返しで、本来、大量の長期貸付の資金などなかった金融会社がどんどん、住宅ローンを貸し付けていったのである。サブプライム・ローンというのはそういうものである。ポイントは債権の証券化、その証券=金融商品の販売という点にある。かつて、日本のバブルのときに「土地転がし」ということが問題になったが、今回はいわば「マネー転がし」のようなものである。
アメリカの経済、そして個人消費は、この「マネー転がし」の上に築かれた砂上の楼閣のようなものだったのである。実際、アメリカの個人消費はその多くが現金による購入ではなく、カード払いによるもので、クレジット・カードの濫造といってもいいような状態になっていたのである。低所得者向けの住宅金融として組まれたサブプライムローンだけが特殊に問題なのではなく、金融工学が編み出した仕掛けで組み立てられている経済全体の構造が問題なのである。
そして、そういうアメリカの経済の好調、そしてアメリカの個人消費の拡大があればこそ、日本の対米輸出が伸び、日本経済の長期好景気が支えられてきたのである。
逆にいえば、日本の好景気、あるいは実体経済は、アメリカ(発)の「マネー転がし」があればこそ、のものだったのである。

2.バブルが繰り返される構造に目をむける
では、なにゆえに、「マネー転がし」が盛んになったのか。いわゆる実体経済の面ではどんどんカネが儲かるような事業がなくなったからである。先に(1)で「モノやサービスの無限の需要があるわけではない」と述べたことが、ここで重要な意味をもつ。爆発的に市場が拡大するような新商品はもはや基本的に存在しないのである。そこで、<金融商品>というものが作られるようになり、「マネー転がし」とでも言うべきものが景気を支える最大の要因になったのである。現在の食糧危機も、その大きな原因の1つは、穀物がマネー投機に対象にされていることにある。マネー投機なしには経済が成り立たないのがグローバル経済と呼ばれる現在の経済なのである。
これが、現在の金融危機、経済危機の本当の意味である。
だとすれば、単なる「景気回復」ではなく、「マネー転がし」をしなくては<売るモノ>がないというほどまでに爛熟しきった今日の市場経済(−資本主義経済)そのものを根本的に見直すことをしなければ、「マネー転がし」よりももっと酷い方法を駆使しなければ経済が廻らないという危機が深まるだけではないだろうか。
日本の1980年代末〜90年代初頭のバブル、世紀の転換点でのアメリカITバブル、そして今回のサブプライム問題(金融バブル)・・・。くりかえし、くりかえし、バブルが発生し、それが弾けるという事態の繰り返し。
「景気」という言葉に踊らされずに、今日の市場経済の問題の根本を考えるべきときだと思うのである。


(3) 「経済の停止状態こそ望ましい」という考え方がある

人はなかなか「景気」という呪縛から自由になれないようである。「景気」を「経済成長」という言葉に置き換えてもいいだろう。
しかし、いまから150年も前(つまり19世紀中葉)に、「経済の停止状態こそ望ましいことだ」と主張した著名な経済学者がいた。J・S・ミルという人である。

1. J・S・ミルの議論
ミルの『経済学原理』という著書から、少し長くなるが、引用・紹介してみよう。

そもそも富の増加というものが無際限のものではないということ、そして経済学者たちが進歩的状態と名づけているところのものの終点には停止状態が存在し、富の一切の増大はただ単にこれの到来の延期に過ぎず、前進の途上における一歩一歩はこれへの接近であるということ、これらのことは、経済学者たちにより、非常に明瞭であったかどうかという違いはあるが、ともかく必ずいつの場合も認められてきたことである。 (※2 ミル『経済学原理』、岩波文庫第4分冊p101-2)

私は、資本および富の停止状態を、かの旧学派に属する経済学者たちがあのように一般的にそれに対して示していたところの、あのあらわな嫌悪の情をもって、見ることをえないものである。私はむしろ、それは大体において、今日のわれわれの状態よりも非常に大きな改善となるであろう、と信じたいくらいである。
(※3 同上書p104-5)

私は後世の人たちのために切望する、彼らが、必要に強いられて停止状態にはいるはるかまえに、自ら好んで停止状態にはいることを。
(※4 同上書p109)

資本および人口の停止状態なるものが、必ずしも人間的進歩の停止状態を意味するものでないことは、ほとんど改めて言う必要がないであろう。停止状態においても、あらゆる種類の精神的文化や道徳的社会的進歩のための余地があることは従来と変わることがなく、また「人間的技術」を改善する余地も従来と変わることがないであろう。そして技術が改善される可能性は、人間の心が立身栄達の術のために奪われることをやめるために、はるかに大きくなるであろう。 
(※5 同上)

ここでミルが「経済学者たちが進歩的状態と名づけているところのもの」あるいは「富の増加」と呼んでいるものが、今日いうところの「経済成長」であり、「好景気」ということである。したがってまた、ゼロ成長の状態、したがってけっして「好景気」とは言えない状態が、「資本および富の停止状態」である。
そして、ミルがここで「経済学者たち」と呼んでいるのは、アダム・スミス以来の古典派経済学の学者たちのことであり、当時の主流派経済学者のことである。
ミルは、当時の主流派経済学者たちの考えとはまったく正反対に、経済の「停止状態」、いいかえれば景気がけっしてよくない状態、あるいはゼロ成長のような状態を、好ましいものと考え、「自ら好んで停止状態にはいる」ことを主張しているのである。そして、その状態は「人間的進歩の停止状態」ではなく、むしろ精神的文化や道徳的社会的進歩のための余地が生まれる、好ましい状態だとみているのである。

2.資本主義経済と景気循環
このミルの議論の背景を少し説明しておこう。
イギリスで資本主義経済が確立したのは19世紀初めから中期にかけてのことであったが、その資本主義経済の確立とともに、景気循環というものが生まれた。好況−不況−恐慌−好況という局面がほぼ10年周期で繰り返し訪れたのである。そして、不況−恐慌という事態に対して、当時の主流派経済学者たちは、経済発展を持続させようとしたのである。他方、この景気循環を資本主義の矛盾の現われと捉え、資本主義の歴史的限界、共産主義社会の歴史的必然性を説いたのがミルと同時代の人であるマルクスであった。そういう中で、ミルは、マルクスのように共産主義革命を唱える立場にはたたなかったが、資本主義経済とその下での経済成長を歴史的に一時的なものと捉え、けっして永続的なものとは見ないという歴史的視野を有していたわけである。
実際の資本主義経済は、19世紀末の大不況期をのりきり、鉄鋼などの重工業を基軸とする新たな経済発展の局面を迎える。それは19世紀中葉のイギリス資本主義に見られたような10年周期の景気循環−恐慌が見られないものであった。しかし、20世紀の資本主義経済の特徴は、1929年世界大恐慌のような破局(カタストロフィ)を招来させ、また、二度にもわたる世界戦争を引き起こしというところにある。そして、経済理論的には、大恐慌的事態を引き起こさないために政府による有効需要創出政策の必要性を説いたケインズ経済学を生み、また、実際の経済としてはアメリカ型の「大量生産−大量消費−大量廃棄」の経済を生み出してきたのである。ミルが「好ましい」と考えた状態とは正反対のものとなったのであるが、第2次世界大戦後の主要国政府の経済政策の理論的バックボーンとなるものを生み出したケインズその人が、じつは、経済成長の継続が必ずしも人間の進歩を意味するものではないということを語っていた。あまり知られていない事実であるが、非常に興味深いことである。

3.ミル「停止状態」論を21世紀に生かす
20世紀末頃から、ミルのこの議論を肯定的に紹介し、今日的に発展させようとする議論が見られるようになった。「停止状態」という呼び方ではなく「定常経済」という表現で展開される議論であるが、地球環境危機が叫ばれる中で環境論の議論として生まれたものである。資源枯渇を招かない経済のあり方の追求ということである。
ここで環境論に深入りするつもりはないし、また、「定常経済」論についてあれこれ議論する能力は私にはない。しかし、つぎのことだけは言っておきたい。経済の「停止状態」を積極的に肯定する議論を、狭く環境論の議論の世界におしとどめておくのではなく、まさに経済そのもの、社会のあり方総体を問題にする議論として、いまこそ、全面的に議論する必要があるということである。
いま、世界中が金融危機の深刻化に恐れおののいている。そういう最中に経済の「停止状態」をよしとする議論を行なうことは、率直に言って、人びとの心情を逆なでする危険性があることであり、勇気のいることである。しかし、そういう議論を行なう必要性が強まっていると、私は思うのである( ※6)。

(※6) 今年7月に日本でサミット(洞爺湖サミット)が開かれたが、日本政府はそれを「環境サミット」と呼び、地球温暖化対策で日本がリーダーシップを発揮するのだと言った。だが、金融危機の深刻化を前にして、日本政府は言うに及ばず、先進国首脳の頭の中から「環境対策」など消し飛び、11月中にアメリカで金融危機対策サミットを開催することになった。一般的に、環境論は世界の景気が悪くなると後退すると、よく言われる。その最も根本的な原因は、環境論が経済情勢そのものをめぐって、「景気後退はけっして悪いことではない。景気後退を経済・社会のあり方を根本から見直し、組みなおすチャンスだ」と言い切る強さを欠いていることにあると思うのである。


(4) 百姓が誇りと確信をもって暮らせる村、そこに未来への展望を見出したい

10月25日付の朝日新聞「異見新言」欄で興味深い論稿を読んだ (※7)。日本でスローフード運動を広めてきた島村菜津さんが「スローシティー」というものを提唱しているものである。

(※7)朝日新聞東京本社2008年10月25日12版(長野県内で発売)。

1. スローシティという運動
島村さんによれば、「スローシティー」という発想・提唱は約10年前にイタリアで生まれたものだそうである。そして、「競争と効率とスピードを優先する社会から、食や自然や伝統との、ゆっくりとしたつながりを取り戻す」ものだという。この運動の発祥地であるイタリアのグレーべ・イン・キアンティという町は、高度成長の1950〜60年代に劇的な過疎化を経験した。ところが、1970年代末から移住者が田舎家を買って住むようになり、人口が回復。その中で、運動の生みの親、パオロ・サトゥルニーニさん(町長)は町を大きくしないことを試み、量販店よりも地産地消、大型ホテルよりも農家民宿を増やすことを追求した。
日本では、たとえばスロー・フードの運動までが商品化されてしまうような傾向があるので、私はここで安易に「スロー・シティー運動を」などと提唱しようとは考えない。だが、グレーべ・イン・キアンティの話が興味深いことはたしかである。

2. マルクス見直しをめぐって
(3)までの記述で、現在の金融危機をめぐって、「景気回復」を求めるのではなく、この際、経済・社会のあり方を根本的に再考することを提起してきた。そして、経済(成長)の「停止状態」を積極的に肯定するJ・S・ミルの考えを紹介してきた。
では、「停止状態」論をうけて、どういう社会、経済のあり方を追求するのか、また、どんな社会、経済のあり方がありうるのか。私の考えを述べてみたい。
最近、格差が拡がり、とくにワーキング・プアと呼ばれる人たちが増えている中で、小林多喜二の『蟹工船』が広く読まれるようになり、また、マルクスの『資本論』の見直しが行われるようになっている。そして、若い世代の日本共産党への支持がある程度広がりつつあるともいわれている。私は、マルクスと『資本論』について、その再読が是非必要だと考えているが、だからといって、共産主義運動がいままた有効になってきているとは考えていない。この論稿は、そのことについて詳しく論じようとするものではないので、一言だけ言えば、『資本論』をとおして<資本>というものの本質を掴むことが大事だと考えるのだが、しかし、階級闘争、権力闘争によって問題を解決することはできないと考えているからである。
そして、私は、<資本>という問題と共に、やはり、社会のすべてを近代化するということの問題性をあきらかにし、見直すことが必要なのだと考えている。別の言い方をすれば、人間が生きていくという営みのすべてが経済の問題に解消されるような社会のあり方を変えていくことが必要だと思うのである。
そこで、考えたいのが、私がいま暮らしている長野県・栄村の暮らしなのである。

栄村は、今年の5月まで村長を務められた高橋彦芳さんがリードしてきた「自律の村づくり」で全国的に著名になった。私が栄村を知るようになって6年、毎月通うになったのが4年前、そして昨年4月から村に住んでいる。たしかに素敵な村である。しかし、何の問題もない理想の村などではない。他の過疎地域と同じく1960年代から過疎化が進行してきたが、「自律の村づくり」によって過疎化が止まったかといえば、過疎化は止まるどころか、人口減少は続き、いまでは2400人にまで減少した。今年の出生数はわずか4人で、このままいけば、いずれは「村の消滅」ということも現実化しかねない。昨今、「元気な町・村」などをルポルタージュする類の本や雑誌が数多く出回っているが、その中には、それぞれの町や村が抱える現実の問題、困難には目を向けず、やたらと絶賛するようなものもかなり見受けられる。そういう類の村(町)紹介にはうんざりである。

3. 栄村の人たちの暮らし

では、私はなぜ栄村をとりあげようとするのか。
そこには、再発見すべきものがあり、そして、経済成長の追求ではない、新しい社会・経済のあり方を追求する可能性があると思うからである。
私が<再発見>すべきものと考えるのは、<百姓>という暮らし方なのである。
私が知る栄村の人たちの多くは自らを<百姓>だと言う。その中には、役場や会社に勤めている人もいる。しかし、その人たちは田んぼをやり、米作りをしているのである。
何人かの人の暮らしを紹介してみよう。

一人は60歳代後半の"かあちゃん"である。夫と二人暮らしで、田んぼは6反ほどあって、お米は完全自給である。田んぼをやる主軸は夫だ。夫は今春、勤めを退職した。かあちゃんは、地元でいう"せっつぇもん畑"をやっている。自家用野菜を作る、わずかな面積の畑のことである。だが、家で食べる野菜のほとんどを賄う。春には山菜を採り、また、自生するフキを採って「きゃらぶき」を作ったりする。味噌は、大豆をせっつぇもん畑で作り、村の加工センターで味噌加工する。また、むらの伝統食である"あんぼ"を仲間と共に作り、イベントなどで売って、多少の儲けも得る。あんぼの主材料は自給の米。中に入れる具の大根葉は畑で作る大根のもの。また、よもぎ入りのあんぼの場合、よもぎはむらで自生しているものを春に摘み、湯がいて冷凍保存しておく。中に入れる餡子は自家製の小豆を自分で煮たものである。
このかあちゃんは、学生たちがむらを訪ねてくると、お茶呑みに誘ってくれて、とてもにこやかな表情で、色んな話を聞かせてくれる。
このかあちゃんの暮らしは、じつに素敵である。一男二女を育てられた人で、苦労も重ねられてきたであろうが、私が聞くかぎりでは、これまでの人生、暮らしを充実したものとふりかえり、誇りにされている。

もう一人も、やはり70歳近い女性である。夫をもう10年ほど前に亡くされ、いまは三男夫婦と同居されていて、勤めに出ている夫婦に代わって、毎日、3人の孫(小4、小2、小1)の世話もしておられる。
このばあちゃんの家の田んぼは1町歩近くある。田んぼは勤め人でもある三男の仕事だが、ばあちゃんも手伝う。また、このお宅はアスパラを農協に出荷していて、6月頃はかなり畑が忙しい。そして、ばあちゃんは、上に紹介した一人目のかあちゃんと同じく、自家用の畑で各種の野菜や豆を作っている。先のかあちゃんも料理上手だが、このばあちゃんもまた料理がうまい。むらを訪ねてくる人たち50〜100人に出す弁当を作ることもある。そして、私はこのばあちゃんにこれまでに二度、「農家レストラン」を頼んだことがある。私の知人がむらを訪れた際に、昼食や夕食をばあちゃんに作ってもらい、ばあちゃんの家で食べさせてもらったのである。
じつに気さくなばあちゃんで、家に立ち寄ると必ず「お茶を呑んでいきな」と誘ってくださるし、私が勤める大学の学生を二度にわたって10日間ほど泊め、農家生活の体験をさせてくださった。その学生は、「ばあちゃんは本当に幸せそうだ」と感想を話していた。

3人目は、若衆(わけしょ)の男性である。40歳代半ばで、役場勤務の傍ら、むらの仲間と一緒に田んぼの受託作業をやっている。実家の農作業も手伝ってきたようだが、本格的に米作りをやるようになったのは、仲間との受託作業が初めてで、ここ3年のことである。
彼は自分たちの米作りに大きな誇りをもっている。その米は精米1俵3万円で直売しているが、直売を始めるにあたって、生産者手取り2万1千5百円、精米販売価格3万円というのを強力に主張したのは彼が中心らしい。
昨年、私と一緒に田んぼにいるとき、私が当時やっていた田んぼがわずか1畝(1a)の田んぼであることをめぐって、彼は「うまくいけば1俵近く収穫できる。いま、国民一人ひとりが1年間に食べる米の量ですよ。みんなが1人1aの田んぼをやるといいのだ」と、「1人田んぼ1a」ということを提唱した。
親父世代から言わせると、彼などはまだ「駆け出し」ということになるようだが、彼は自らが百姓の子であることを誇りに思い、自らも百姓として生きていこうとしている。栄村の若衆の生き方を示しているように、私には思えるのである。

ここに紹介してきた人たちは、もちろん、カネと縁の無い暮らしをしているわけではない。高度経済成長によってもたらされた電化製品などもある暮らしをしている。しかし、暮らしに必要なもののほとんどをカネで購入するという暮らしではなく、逆に、暮らしに必要なもののかなりの部分を自らの手で賄っている。とくに食の部分はそうである。そして、暮らしの知恵と技をじつに豊かに有している。そこにこの人たちの暮らし(方)の素晴らしさがあると思うのである。

栄村の人たちの多くは、この3人と基本的に同じようなスタンスの暮らしを営んでいる。もちろん、若い世代などを見ると、むらで暮らしていながら、価値観的にはどうも都会のそれに近いという人たちも見受けられるが、まだむらの暮らしの基本は、以上に見てきたようなものだといってよいであろう。
ところが、以上に見てきたような暮らしが多くの人たちによって営まれながらも、そういう暮らしの価値がむらの人たち自身において十二分に認識され、対象化・言語化されて、他にむかって提起(発信)されるというようにはなっていない。私が残念に思うのはこの点である。
しかし、私は、栄村のこういう暮らしに未来への展望を見出したいのである。
もとより、現在の都市に暮らす人たちが、栄村と同じような暮らしをできるわけではない。また、都市の存在、都市の暮らしを否定するつもりもなければ、否定する必要もない。しかし、都市と、都市の暮らしのあり方を変える必要があることは否めない。私が栄村で、栄村からの提起として考えることは以下のとおりである。

4. 栄村への提起、栄村からの提起
第1。山村である栄村の暮らしの価値を再発見しようということである。
これは、栄村の人たちと、都市で暮らす人たち、その双方への呼びかけである。栄村の人たちには、自分たちにとっては<当たり前>として存在している、むらの暮らしを<当たり前>で済ませずに、その暮らしの様相をきちんとふりかえり、その価値を自ら見出す(再発見)作業を是非ともやってほしいと思う。地元学というものがあり、「"ないものねだり"ではなく、"あるもの探し"を」と提唱されているが、ここで私が注意を喚起しておきたいことがある、"あるもの探し"というと、"(他所にはない)変わったもの"ということを意識しかねないが、そうではないということである。他所の農山村にもあるものも含めて、むらの暮らしというものを具体的に、そして全面的に拾い上げ、その価値を認識していくことが大事なのである。

第2。"むら"的な暮らしと矛盾しない範囲で、むらの農産物や加工品、あるいは文化などをうまく「商品」化することを追求しようということである。
たとえば、むらのかあちゃんたちの多くは、先に紹介したように、自分で味噌を作っている。その一部が「囲炉裏端味噌」という名前で売られている。私もその愛好者である。村を観光で訪れた人たちも、「道の駅」などで味噌汁(なめこ汁など)をのみ、そのうまさに感心して、味噌を買い求める。ところが、「囲炉裏端味噌」が品切れになっていることがよくあるという。仕込んだ味噌がなくなったのではなく、自分の家の農作業が忙しくて、味噌をパックに詰める時間がないというのである。これなど、パートの仕事を探している若い人などを使えば、打開できる問題である。だが、そういうちょっとした工夫ができていない。
この味噌、原料の大豆はそれぞれの農家の自家用畑で栽培したもの。遺伝子組み換えなどとはまったく無縁である。日本は大豆の大半をアメリカからの輸入に頼っているが、今年、遺伝子組み換えではない大豆はほとんど入手できないという。自家用畑で作った大豆を原料として、農家のかあちゃんたちが手作りしている味噌。売れないはずがない。需要はいくらでもあると言っていいだろう。
ただし、ここで大事なことは、栄村で大規模な味噌生産産業を作ろうという話ではないということである。そんなことを追求すれば、むらの暮らしは市場経済の波に呑み込まれ、無茶苦茶になってしまう。
いわば「お裾分け」としての「半商品
(※8)」 であることが大事だと思うのである。ただ、栄村の現状は、「半商品」にもできていない(していない)状況である。むらの暮らしを営みながら、しかし、たとえば「道の駅」での需要の動向のお知らせ・情報の共有化、パック詰め作業の工夫、むらの味噌に関する情報発信とそれによる需要者層の把握・直売の組織化などによって、むらに相応しい「産業」が作れると考えられるのである。

(※8)内山節氏が紹介している考え方。内山『農の営みから』(農文協、2006年)など参照。


第3。都市(民)との交流である。
都市に暮らす人たちには、是非とも、栄村を訪れていただきたい。
この間、村を訪れた人を、私が米作りに携わっている棚田に案内することが数回あった。いずれも棚田で作った青倉米というお米を直売で購入し、食べている人たちである。日頃、写真で棚田の様子をお知らせしているのだが、実際に現地にやって来て、ここの棚田のよさが初めて本当にわかる(実感される)ようである。これにプラスして、農家泊とまでいかなくとも、農家を訪ねてお茶呑みでもする機会があれば、<交流>はぐっと深まるであろう。
<交流>はむら人、都市民の双方にとって大いに意味がある。
むらの人にとっては、第1点で提起したむらの暮らしの価値の再発見をする絶好の機会となる。都市の人たちにとっては、むらの暮らしを実際に自分の目で確かめ、実感し、それをとおして、都市の暮らしを見直すきっかけとなるはずである。
私は、ここ3年ばかり、大学の同僚などに村を訪れるように声をかけてきたが、ようやく訪ねて来る人がぼちぼちと出てきた。これまで栄村に関心がなかったというのではない。京都からだと、少なくとも1泊はしないと村を訪れることはできない。その時間がなかなか確保できないのである。だから、そのことを逆に捉え返すと、村を訪れることの意義が浮かび上がってくると思うのである。1泊2日の旅もままならないような、多忙な暮らし。それが都市の暮らしである。そこをなんとかやりくりして(突破して)、村を訪れる。そこに都市の暮らしを変える営みの始まりがあると思うのである。そして、むらで見聞・体験したことから、都市に生まれて此の方、思いもよらなかった人間の暮らし方というものに気づき、何かを変えるきっかけ、ヒントが得られるのではないだろうか。いいかえれば、単なる「癒しの旅」などではなく、「交流の旅」をしてほしいのである。
そういう意味で、すでに勤めを引退した世代も結構だが、それ以上に、30歳代〜50歳代の「現役バリバリ」の人たちに是非、村を訪れてもらいたいと思うのである。

以上に述べてきたことは、本稿の主題である「金融危機」という問題の大きさからすると、あまりにささやかな問題提起に過ぎないと思われるかもしれない。しかし、このささやかな提起の中にじつは非常に大きなものがあると考えるのである。

(了)
2008年10月26〜27日記


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