10年後の村の姿を想像(創造)する  −松尾真


※地元紙「津南新聞」の要請により、同紙1月1日号に「10年後の村の姿を想像(創造)する」を寄稿しました。本文は以下のとおりです。PDFで、津南新聞に掲載された紙面をご覧になれます。

2009年の新年は、先行き見通しが非常に暗い中で迎えることになった。いうまでもなく、サブプライムローン問題に端を発した世界同時大不況のゆえである。

村がいいか、都会がいいか
この大不況の影響が栄村のような山村にいつ、どのような形で波及してくるのか、いまだ定かではない。村も、もちろん、この大不況から無縁ではありえないだろう。
しかし、ひとつ視点を変えて考えてみると、面白いことが浮かび上がってくる。
それは、「村には仕事がない。都会に行けば仕事がある」という話がいまや通用しなくなったということである。相次ぐ「派遣切り」、「内定取り消し」、そしてソニーが真っ先に表明しているが、正社員も人員整理の対象になっている。しかも悲惨なのは、首切りと同時に社宅を追われてしまい、一夜にして住む所もなくなってしまうということである。
その点、村はそうではない。大地にどっしりと根づき、まず家があって、その家に住みながら仕事をどう確保するのかが問題になるのだから、住む所がなくなってしまうということはない。
現代では、たとえ村暮らしでも相当の現金(カネ)を必要とするから、仕事の問題はとくに若者にとって非常に切実な問題であり、村に暮らすといえども、不況と無関係ではいられない。でも、住む所だけでなく、家に少しでも田畑があれば、最小限の食べることにも事欠かないであろう。
2〜30年前から、日本の社会では「物質的な豊かさは満たされ、人びとは精神的豊かさ、ゆとりや余暇を求めるようになった」と言われ、農山村の価値が再評価されるようになってきた。しかし、その場合は、都会暮らしをやめて農山村に移り住むという人はやはり少数派にとどまり、多くは「グリーンツーリズム」などと称して農山村を旅し、数日してまた忙しい、そして喧騒な都会の暮らしに戻っていくのである。
しかし、いま、大不況の中で、仕事がない、住む家がない、何を食べるにもカネがいる…という都会の暮らしに比べて、日々の暮らしの場という意味で、農山村の方がはるかに暮らしやすいという優位性を示しつつあるといっても過言ではないのではないだろうか。
なにを馬鹿なことを言っているのか、と思われる人も多いかもしれないが、ちょっと立ち止まって、よくよく考えてみる価値がある話ではないかと思うのである。



「2010年問題」はどうなるか
さて、「2010年問題」というのをご存じだろうか。これは3つの問題から成る。1つは、現行過疎法が2010年3月で失効することである。2つは、中山間地域等直接支払制度も2010年3月で期限切れとなること。そして3つは、現在の日本農業の中心を担っている昭和1桁世代が2010年で全員75歳以上となり、現役引退がいよいよ現実の問題として迫ってきて、農業の担い手問題が深刻化するということである。
筆者は2つ目の点をめぐっては、制度の存続あるいは継承について、かなり楽観的な見通しをもっている。むしろ問題は制度が何らかの形で存続しても、3つ目の問題との兼ね合いで、はたして対象地の耕作を維持できるかどうかにある。
村の将来展望を考える場合、ある意味で直接的に脅威となるのは過疎法の問題である。過疎法のいちばんの利点は、村の事業遂行のために過疎債が発行でき、しかもその7割の返済は地方交付税交付金によって保障されることになっていることである。
ところが、この点の雲行きが怪しいのである。政府は、2010年以降も過疎法的な法制度をなんらかの形では残すとみて間違いないだろうが、それを検討している総務省の過疎問題懇談会の座長・宮口?廸(としみち)氏(早稲田大学教授)は、その著書『新・地域を活かす』の中で、
・ 過疎債による生活基盤整備はほぼできた
・ 過疎債が今のような形で継続されるかどうかは、交付税のあり方の議論に大きく左右される
と述べているのである。
ただ悲観するだけではよくないが、状況は相当に厳しいと腹をくくるべきであろう。



道州制問題を真剣に考えることが必要
そういう中で浮かび上がってくる、いまひとつの大問題が道州制をめぐる問題である。
昨年11月の全国町村長大会で「道州制導入反対」の決議が行われた。異例の決議である。それほどに問題は重大なのだが、多くの人たちはまだ、さほど現実的な問題としては受け止めていないように思われる。
本稿の表題を「10年後の村の姿を想像(創造)する」としたが、いま、国が考えているスケジュールでは10年後の日本はすでに道州制が導入されていることになっている。自民党では、すでに道州制基本法というものの制定の検討に入っている。
道州制には、平成の大合併とは根本的に異なるところがある。各市町村の意思は関係ないということだ。国の法律で道州制を決めてしまい、上から一方的に現在の県・市町村を廃止してしまうのである。
政府の道州制ビジョン懇談会座長・江口克彦の著書によれば、長野県は「北陸信越州」とされ、基礎自治体は「衆議院の小選挙区の区割り」が基本になる。栄村の場合は長野市に編入ということになり、とんでもない周縁辺境地という扱いをされることになる。
しかも、道州制導入は行革−公務員大幅削減を狙いの1つとしているから、現在の市町村職場職員は新しい市の市役所に異動にはならない。整理=首切りである。江口氏によれば、「これまでの国の仕事の多くは道州が、都道府県の仕事は市が、市町村の仕事は民間やNPOが担う」ということで、少なくとも町村役場職員が公務員の職にとどまれる可能性は限りなくゼロに近いのである。



想像=創造力を働かせ、新しい村づくり・産業づくりを進める
ここまで述べきたことからすると、「10年後の村の姿」とは、「村が消えてなくなってしまっている」ということになってしまう。
しかし、村の人ならば誰しも、そんなことを黙って見ているわけにはいかない。
国が進めようとしている道州制とは正反対に、栄村のような村が自立・自律の村として元気に力強く発展していく姿をこそ想像することが必要だ。もちろん、ただ想像するだけではダメだが、しかし、想像力の働かないところには何も生まれないこともたしかである。
冒頭に、都会よりも村の方が暮らしやすいということを書いた。人間の人間らしい暮らしということを考えれば、村にはさまざまな可能性がある。筆者はこの間ずっと、本当に「村には仕事がない」のかについて考え続けてきた。辿りついた結論は、「仕事はいっぱいある」である。米や味噌、トマトジュースなどの農産物・加工品への需要はいくらでもあるのだが、それに応えるシステムを村で作れていないために、「仕事がない」ということになってしまっている。あるいは、観光や都市からの体験学習等も、栄村ほど自然・文化の資源が豊かなところはないのに、なによりも村人がそのことに十分気づいていなくて、それらを生かす産業を作れないでいる。早い話が「観光ガイド」ひとり育成していないのが現状である。
筆者は、村の仲間と共同して、こういう素材・資源を生かして若者の職場を創造する活動を始めるべく、いま、準備を進めつつある。事はそう容易ではないと覚悟しているが、大事なことは大きな想像力=創造力に支えられた進取の精神だと思う。10年後、たくさんの子どもたちの声が響きわたる村の元気な姿を想像し、それを糧としながら、2009年を、この夢を正夢にする第一年とすべく頑張りたい。

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