*****************小正月どんど焼き****************


栄村では、1月中旬に「小正月」の行事が行われる。
メインは道祖神祭で、そこでは「どんど焼き」が行われる。
これはほとんどすべての集落で行われる。
箕作集落では「おんべ」という珍しい行事も行われる。

もともとは1月15日に行われていたが、
国のいわゆる「ハッピーマンデー」政策で1月15日が
「成人の日」の休日ではなくなったため、
最近では、13〜15日頃の休日に行われている。
というのも、道祖神祭は子どものお祭りなので、
小中学校が休みの日でないと出来ないためである。

ここでは、青倉の「どんど焼き」の準備の様子と
本番の模様を写真入りで紹介する。
その後、少し、<小正月>とは
どういうものかなどについて、若干の説明をする。


どんど焼き

「とんど焼き」と呼ぶ地方もあるようだが、
どんど焼きは正月の注連縄(しめなわ)などを
各家から持ってきて焼くものである。
栄村の青倉集落や森集落で見ていると、
あらかじめ藁や萱、それに杉の葉で組み立てられたところに、
どんど焼きの当日、集落の人びとが注連飾りや達磨を持って来て、
火の中に入れて焼いている。

どんど焼きの火で餅を焼いて食べると、
病気に罹らないと言われている。
また、子どもたちの書初めをどんど焼きの火にかざして、
空中に舞い上がると字が上手になるとも言われる。

青倉集落では、今年の場合、
1月13日が道祖神祭・どんど焼きの日とされ、
それに先立つ11日に準備が行われた。
今年から道祖神祭の運営主体になった公民館の運営委員らが出て、
心棒を立て、その周りに藁、萱を巻きつけていき、
さらにその上に杉の葉を差し込んでいく。

杉の葉にはどういう意味があるのかを尋ねたが、
現在60歳代くらいの人になると、
「俺らは若いので、あんまりわからない」とのことだった。
こういうものの由来はせいぜい昭和一桁生まれの人までしか、
よくわからないようだ。聞き取りなどの作業で、
伝統行事の由来などを継承する作業が急がれると思う。

ただ、「藁と萱だけだと、ただパッと赤く燃えるだけで、
煙が出ない。杉の葉を入れると、
よく煙が出て、いいんだ」という話は聞けた。
どんど焼きに使う藁や萱は、稲刈り・秋仕舞いの作業を終え、
冬が訪れる前の11月初旬にきちんとした束にして、
どんど焼きの会場となる田んぼに積み上げ、シートをかけて保管しておく。
今年の場合、11月18〜19日にいきなり積雪30cmを超える初雪がきたため、
村内では萱が確保できず、
北信で雪がまだなかった地域に行って確保した集落もあったようだ。

どんど焼きの準備の様子は、写真にそって説明するが、
見ていて関心したことが2つある。

1つは、藁や萱を心棒の周りに巻きつけていくときの、
縄の使い方である。1本、1本の縄には長さの制約があるが、
縄と縄とを結んで、長くして使っていく。なんということもないことではあるが、
都会では縄というもの自体をあまり見かけない、
そして使わなくなっている昨今、見ていて、なかなか楽しかった。

もう1つは、準備作業に携わる人たちのほとんどが腰に鉈を下げていることだ。
直径が3〜4cmほどある木でも、鉈で切ってしまう。
道普請に行くときなども、高齢の人たちは必ず鉈を下げている。
山里の暮らしの知恵・技である。

〜どんど焼きの様子〜



どんど焼の会場地(すぐ後は高橋村長宅)



かんじきで雪を踏み固める(腰に鉈が見える)


雪を掘って萱を取り出す


心棒を立てる



心棒のまわりに藁をまきつけていく


藁の外側に萱をまきつけていく


心棒の先端に杉の枝木をくくりつける


周りに杉の葉を挿し込んでいく


完成


雪で道祖神祭の祭壇をつくる


祭の始まりを告げるほら貝を子どもが吹く
(島田隆介君)


点火


注連飾りなどが火に入れられる.


雪を被りながらも炎と煙を出して燃える



上部の方はもう燃えてしまった


ほぼすべて燃えたあと


燃えてできた炭を雪で融かし、子どもたちが人の顔に塗りつける
(写真は青倉受託作業班長・広瀬明彦さん)


祭の終わりにミカン撒きが行われる


小正月とは

都会では最近、「小正月」(こしょうがつ)というものを
耳にすることはほとんどないだろう。
実際、「小正月」の行事も見当たらない。
しかし、農村では、栄村にかぎらず、いまでも小正月の行事が行われ、
1月1日の"大正月"(だいしょうがつ)よりも盛んだとすらいえる。

いま、<大正月>という言葉が使ったが、
大正月と小正月について、
民俗学者の宮田登はつぎのように解説している。

正月行事と一口に言うが、これはずい分中味が錯そうしており、単純ではない。期間はだいたい12月中旬ごろのススハライまたはコトハジメとよばれる時点からスタートして、2月初旬の立春またはコトオサメの時期で終了する。なぜこんなに長い期間にわたっているのかというと、太陽の周期を目安にし、農耕の開始と終了とに合わせて生活のリズムが作られているからである。晩秋から早春にかけて、太陽の光は弱まり、農耕生活は沈滞する。ちょうど冬至が中心になって行事が行われる場合がそれに当り、西洋の正月は、冬至正月系統に属している。日本の正月は、大正月と称する正月元旦を中心に七日正月ぐらいまでが、冬至に連なっている時期であり、明治5年以後の新暦の採用で、いっそう大正月を強く意識するようになった。

・・・・・・

現在七十歳台の老人たちは、旧暦の正月を経験したことがある。旧暦の方は、太陽ではなく月の満ち欠けに依存するので、望月(もちづき)の十五日が中心になって構成されている。時期も冬至よりも、立春に近い。小正月という名称もあり、これは農村地帯では今でも親しまれる行事として伝承されている。大正月の方は、役所、会社や学校も休みとなり、どちらかといえば公的な行事という感じがあるが、小正月の方は、私的な形で、家ごとに神祭りをするのである。それも農耕儀礼の性格がきわめて強い。つまり稲作や畑作が今年も順調であって欲しいという農民の願いが象徴的に表現されているといってよいだろう。
民俗学の用語では、これを予祝儀礼とよんでいる。・・・
小正月とは、雑煮よりも小豆粥が食物として特長がある。これは赤い色をしたハレの食物の代表で、白い飯ではなく、特別な色をしたものでケの食物と区別しているのである。私なども信州の田舎にいた時、小正月の晩が楽しかったことを覚えている。茶の間いっぱいにマユ玉が飾られていた。これは、木の枝に米粉で作った団子をさしたもので、餅花ともイネノハナともいう。養蚕地帯では、団子をマユのような形にしたからマユ玉とよんだのである。

(宮田登『暮らしと年中行事』p60-62、「宮田登 日本を語る」第5巻、吉川弘文館、2006年。初出は1979年)


この中で、宮田氏は大正月が公的行事の色彩が濃いと述べている。
いまでは、とくに都市部においては大正月で正月行事は終わりになるので、
このことが意識されることはあまりないだろう。

しかし、戦前までは都市でも商家などへの「丁稚奉公」があり、
奉公人は「薮入り」といって、
旧正月十六日とお盆の旧七月十六日の二日だけ、
故郷の実家に里帰りすることが許されていた。
それに対して、大正月は、江戸時代には大名が江戸城に登城して将軍(家)に
お礼の挨拶をすることが重要な行事であった。
また、大正月はもともとは皇室行事が中心で、
戦前は一月元旦、子どもたちは登校し、
皇居の方角に向かって遥拝をしたものであった。
その名残りか、私が小学生の頃は(1950年代後半〜1960年代初め)
元旦は学校に登校し、新年祝賀式に出席、
紅白のまんじゅうを貰ったものであった。
いま、子どもが元旦に登校するようなことはないが、いつ頃、なくなったのだろうか。


小正月のことを知りたくて、宮田登氏の著書を読んだのだが、
上記の引用以外にも、さまざまな正月行事と
その意味が解説されていて、なかなか興味深かった。
農事暦というものがある。
これについて、宮田氏はつぎのように述べている。


一般に耕耘播種の時期を細かに算定して、収穫の順調を願う儀礼をとり行うのが農事暦の基本であり、日本には伝統的に自然の移り変わりをとらえる暦が農耕儀礼と重なり合って、人びとの生活を律してきたのである。
(前掲書、p85)


いまでは、こういう農耕儀礼と重なり合った農事暦というものは
、農村においてすら、あまり明確には意識されていない。
その替わりにといってはなんだが、農協がいつ種を蒔くとか、
いつ農薬を撒くといった「暦」を農家に配布している。

それはさておき、カレンダーと昔ながらの暦とのズレがあり、
カレンダー上の日付けと「正月」「立春」等々の暦、
そして農事暦とが感覚的に一致しない。

宮田氏はこう述べている。


「明治六年(1873)年以後の新暦の正月は、太陽暦の採用によって、真冬の最中の正月となり、北国は厳寒の候である。しかしそれ以前の、いわゆる旧正月の時期は、それより約40日くらいの時間差があり、文字どおり初春のイメージがある。ちょうど種蒔きを開始してもよい地域も多い」


たしかに、40日くらいズレがあり、
現在の(新暦での)2月10日〜20日頃であれば、
ようやく厳寒期を過ぎ去ろうとしていて、
そろそろ種蒔きの時期と言ってもおかしくはない
(豪雪地の栄村の場合は、もう少し後になるが)。
そして、そもそも、正月に「新春」とか
「迎春」とか言うのも意味合いがよくわかる。

明治の新暦採用のときに、
農民が「農事暦がおかしくなる」という趣旨で、
新暦に反対したという話を以前に書物で読んだことがあるが、
たしかにそうである。

今回、小正月−どんど焼きから始まって、
ここまで話を広げてきたのは、
自然と折り合いをつけながら農を営んできた人びとの智恵と習俗というものを、
いま、見直す必要があるのではないかと考えたからである。

地球環境破壊が危機感をもって語られ、
持続可能な社会ということが課題とされているいま
昔の人たちの智恵、農山村に残る伝統行事から
多くを学ぶ必要性が高まっているのだと思うのである。
(松尾)


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